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1893年、アメリカの商人が、アメリカ海兵隊と外交官の支援を得て、クーデターを起こしました。リリウオカラニ女王率いるハワイ王国の転覆を狙ったのです。 これに対し、女王はワシントンに抗議の訴えを送ります。

クリーブランド大統領は調査のため、下院議員ジェームズ・ブラントを派遣。 ブラントの報告書は、ハワイ転覆にアメリカ政府高官が関与したことを批判するものでした。 ところが、ハワイ併合賛成派であった上院議員ジェームズ・モーガンが新たに調査を行い、ブラントの報告書を覆します。 クリーブランド大統領は、併合を望む上院と、クーデターの首謀者への恩赦をしぶる女王の間に挟まれます。結局、大統領はハワイ王国に主権を戻すことはできず、〝ハワイ共和国〟が宣言されたのでした。

1897年3月、併合賛成派のウイリアム・マッキンレイが大統領に就任。その4ヶ月後、併合条約が上院に提出されるに至ります。

こうしたアメリカによるハワイ諸島併合の動きに対し、ハワイ先住民族は反対組織を立ち上げ、各地で集会を行いました。数週間の間に5つの島々に4万人いる先住民族から、3万8000以上の署名を集めたのです。

 

リリウオカラ二女王と4人の代表は556頁に及ぶ署名を上院に提出。ロビー活動が功を奏し、併合条約は破棄されました。  ところが、米西戦争いわゆるアメリカスペイン戦争が勃発し、ハワイ併合論は、息を吹き返します。キューバとフィリピンを舞台としたこの戦争で、ハワイは戦局を有利にする価値の高い場所であるとされ、結果、多数決のみで合同決議案は可決されることとなり、1898年7月、マッキンレイ大統領が法案に署名し、ハワイの主権は、アメリカ合衆国へと移されたのです。

さて― 併合反対のために集められた署名は、ワシントンの国立古文書館に保管されていました。しかし1990年代に研究者ノエノエ・シルバが発見するまで、その存在は、忘れられていたのです。 彼女がこのクーエ嘆願書を公にしたことで、ハワイ先住民族が国家と主権、民族のために最後まで戦い続けた事実を知ることができるのです。